PROFILE


洞窟探検家 吉田 勝次 (よしだ かつじ)
1966年12月19日 生まれ
大阪府出身
一般社団法人日本ケイビング連盟会長。
地球探検社(有)勝建 探検事業部、代表取締役。
Japan Exploration Team(日本探検チーム、略称J.E.T)代表
National Speleological Society 会員
NPO法人日本火山洞窟学会会員
日本洞窟学会会員

特技
:少林寺拳法 5段 経験してきた格闘技、武道(空手、キックボクシング、テコンドー、柔道)
:スキューバダイビング
:アマチュア無線技士
:発破技師
:土木施工管理技士
:建設機械施工管理技士

著書 「洞窟ばか」2017年1月に扶桑社より発行

山から洞窟へ
1988年 冬、突然、思い立って山に登りたくなり、日本アルパインガイドの故・長谷川恒男氏より冬山雪上訓練.登攀の指導を受ける。
以後、一年を通して登山の世界に入りこんでいきました。
登山を始めて5年が過ぎようとしていた1994年夏、吉田はあるアウトドア雑誌のある記事に目を奪われた。社会人による洞窟探検のクラブについての記事が掲載されていた。 それを見た20秒後、吉田は記事の最後にあ記載された電話番号に電話して、さっそくその週末にあこがれの洞窟探検へ連れて行ってもらう約束を取り付ける。多くの探検者と同様、吉田の決断と行動はとても素早い。 これが、洞窟探検の組織で浜松ケイビングクラブというクラブの会長である竹内氏との出会いだった。それからというのもの吉田は、洞窟探検のイロハを教わるために毎週末を浜松で過ごした。

浜松ケイビングクラブの活動に行くようになった同じ頃、吉田は東海地方でケイビングフェスティバル94というイベントが開催されることを知る。 ケイビングフェスティバルとは、日本全国の洞窟研究者の発表やケイバーの情報交換や技術の向上を目的に集まる一大イベントだっだ。 その年の受け入れ団体が浜松ケイビングクラブでした。吉田はそのまま実行委員となった。しかし、全国から集まる洞窟関係者のために、 開催地に一週間前から泊まりこみ作業と準備、そのまま開催日からの受付、送迎などあわただしく、何が何だかよくわからないまま閉会してしまったらしい。洞窟にはまったく入れなかったということでした。

方向転換
その後も、浜松へ熱心に通う吉田に、浜松ケイビングクラブの会長である竹内氏が運命的な助言をする。 「自分で発見した洞窟はどんな洞窟でも最高に感動するよ♪

確かに知られている洞窟でもただに入るだけで感動するのに!自分で発見した洞窟だったら。。。と吉田は思ったらしい。更に竹内氏は「三重、岐阜、滋賀はまだほとんど調査されていないから未踏の洞窟たくさんあるかもしれないよ。
それを聞いてからの吉田の活動は一変した。知られている洞窟へは行かなくなり単独で未踏洞窟の入口を探すためにあっちこっちの山に入る活動が始まった。
単独で洞窟を探しに山へ行くのが当たり前になっていた。たまたま洞窟が見つかれば探検していた。山岳会に所属していた吉田にとって、新洞探査のために山中を歩き回る「やぶこぎ」に体力的な問題はなかった。 しかし、1993年登山中に遭難事故を起こした経験のある吉田は仲間の必要性を痛いほど感じていた。

出会い~探検チーム結成
そんなあるとき、浜松ケイビングクラブの竹内氏から名古屋に元気な大学生がいると聞き、及川元(はじめ)を紹介される。それは正に運命の出会いだった。 吉田の超人的な体力とバイタリティに共振しつつ、一般社会を逸脱していた吉田にブレーキをかけられるのは及川元だけだったのだ。 当時、失恋したばかりの大学生だった及川の口癖は「1年中、夏休みですから」だった。しかし、そのあと無期限の夏休みが訪れるとは及川自身も予測していなかっただろう。 二人は自宅が近いこともあって、周りから怪しまれるほど、来る日も来る日もいっしょに山の中を這いずりまわっていた。知られている洞窟へは行かず、活動のほとんどが未踏洞窟の探査に費やされたのだ。 竹内氏が言っていた新洞発見の感動を体感するため、休みのすべては未踏洞窟を探すための活動に費やされていった。

並はずれたパワーの行き場を洞窟に求めていた二人が出会ったことによって、その力は何倍にもふくらんでいた。パワーだけで勝負していた二人に、浜松の稲垣氏が加わり、知識と経験が補われた。 稲垣氏は高校生の時から自転車で近所の洞窟に行ってしまう洞窟好きで地質、生物の知識が豊富で洞窟を学術的な目線で見ることが出来た。パワーと頭脳がタッグを組み、無敵に思われた三人だが、計画性や持続性は皆無だった。このままでは三人は山の中を駆け回るだけで一生を終えていたかもしれない。
1995年、海外遠征で英語の必要性を強く感じた吉田は英会話を習得するために駅前留学する。そこで、担任の先生になったのが講師・葉山であった。 このときすでに彼は少し太っていて、吉田は少し心配になるが、本人の強い意思もあって洞窟に行く約束をする。ハイキング気分でテニスシューズを履いて行ったのが葉山の洞窟デビューだった。その後何度もつらい目に遭いながらも洞窟の楽しさに目覚める葉山。 そんな彼を、吉田はあちこち連れて回り、仲間として鍛える。なぜかロッククライミングの練習になり60mの壁にへばりつくこともあった。葉山はアメリカの大学へ行きコンピューター専門家でした。 のちに葉山は当時はまだほとんど無かったチームのホームページを作成して持ち前のコミュニケーション能力を活かして、体験ケイビングを開催してメンバーを順調に増やしていくことになる。
吉田、及川、稲垣、葉山と4人そろったところで、
1996年吉日Japan, Exploration, Team (日本の探検チーム 通称 J.E.T ジェット)が結成される。
右だ!左だ!上だ!下だ!と幾多の難関を潜り抜け未踏の洞窟の入口を探し求めてき吉田だが仲間を得たことでこれまで以上にハードな探検が行えるようになった。
以後、全身全霊~すべてを洞窟探検に注ぎ込んでいく~。ご興味のある方は是非!吉田の著書「洞窟ばか」をご熟読くください。

吉田勝次の洞窟ばか

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